インカレは1年で1番大切なレース。最終年の今年はこのレースで引退することをシーズンインの時に決めて、大学ポイント獲得を目標に取り組んできました。少し長い文章になってしまったので、最後の方だけでも読んで頂けたら嬉しいです。

 

前日はマネージャー、サポートメンバーが選手の代わりに動いてくれたお陰で22時には寝る事ができ、当日もゆっくりと会場に入らせてもらえた。毎年序盤はペースが上がり、力の無い選手は振い落とされる。去年のインカレはそこでリタイアしてしまった。1周目から身体が動くように、尚且つ後半勝負出来るようにアップの時間をシビアに取る。

スタート位置も福元が前を取ってくれたから最初のパレードスタートはストレス無く走れた。思ったより最初の1〜2周はペースが上がらない、むしろ、逃げが決まってからはかなり遅く感じた。4周目に補給が始まってもまだペースが上がらない。集団もかなり人数が残っていて、例年と展開が異なる。強豪校の動きに注意しつつ、最後の激坂区間でポジションを上げていく。この時初めて集団の先頭に出る。5周目?に二宮が後ろに居たから少し話をした。平坦から登りに差し掛かるタイミングで中央大学が前を固めるのが見えた。二宮を連れて前に行こうと集団の横からポジションを一気にあげる。ちょうど集団の3列目くらいに出た時に、強烈にペースが上がった。下りもキツくヤバかった。なんとか耐えて一瞬落ち着いたけど、6〜8周目は登りでペースが上がってだいぶ脚を使った。この時から脚を吊りはじめて、補給はスポドリとマグネシウムを多めに取っていたと思う。ゼリーやバナナは内臓が嫌がって食べれない。沿道に松兼と山神が居るのが見えて、大学ポイント獲得の為に何としても久保田と2人で残らないとと思った。9〜11周目はサイクリングペースになったと思えば、明治の野本や日大の岡本がアタックして集団が縦一列になったりとペースのアップダウンが激しかった。正直どんな漕ぎ方をしても脚の吊りが治らずに満身創痍でペダルを漕いだ。ほぼ出力を出せなくなった脚で、気持ちだけで食らいついたけど11周目の最後の激坂で力尽きてしまい集団から遅れる。1人になってから両脚を吊って倒れてしまい、半周で降ろさた。120km地点でDNF、リタイアになった。

 

結果はイメージしていたものと違い、悔しいリザルトだった。補給地点に戻ってサポートしてくれた後輩や松兼、兄や父の姿を見ると涙が出てきた。ポイントを取れなかった、声援に応えられなかった悔しさと、もうあんな苦しい思いをしなくていいのだというホッとした気持ちがあって涙が止まらなかった。補給所からフィニッシュ地点まで皆んなが自分を応援してくれた光景、そして集団が離れていった時の悔しさは一生忘れない。自転車競技をしていなければ普通の大学生だった筈の自分が、あんな大声援を受けてレースを走り、一瞬でも皆んなの期待を背負えたことは誇りに思う。

 

就活を終えてからはこのレースの為に全てやれる事はやってきました。刀を磨ぐように身体を絞っていき、常にインカレや自分への期待と不安がありました。その分今回の結果は悔しいですが、大学から競技を始めた自分でも団抜きやロードレースで関西大学を背負って走れる、という事を後輩に見せる事が出来ました。

始めて走ったレースは一年生の時のクラス3の美麻ロードでした。その時は何のプレッシャーを感じる事なく、自由に走りました。そして今回はキャプテンとして4回生としてインカレの舞台で様々な想いを背負って走りました。四年間でこんなに沢山のモノを背負って走れる様になり、それは僕のチカラとなりました。

 

兄のようになりたくて、活躍したくて始めた自転車競技ですが、4年間を走りきって1年生の時に思い描いたモノよりも何倍も素晴らしいモノでした。様々な方の応援のお陰で僕は成長出来ました。最後になりましたが、本当に4年間ありがとうございました!

 

 

 

 

〜4回生 小西瑛久〜